昨日、公開しております「ルーズベルトに与ふる書」も、参考に成ると思いますので、よろしくお願い致します。
本日も、”仮説・妄想”で考えてみます。
”未来は、自分が創る”についてです。
毎年、お盆のシーズンに成ると、先祖の霊が帰ってきてひと時を過ごし、その後に、帰っていくというストーリーが話題に成ります。
これは、子供の時から、不思議に思っていました。
過去から伝わってきた風習だからという意見も有る中、地域に依って扱いの違いが多々あります。
視野を広くすると、海外ではどうなのかについて見てみると、何らかの形で先祖に感謝したり敬う事は有るようです。
ただ、細かい部分の考え方や、扱いが異なっています。
共通する部分は、道徳的なものと判断できますが。異なる風習部分いついてはどうでしょうか?
日本の場合、宗教的な考えについては、多宗教容認派では無いかと思います。
元々、日常生活で、重要な、水に対しては、山から流れ出る水に感謝し、その自然の恵みに感謝し、
田畑では、農作物の実りに対して太陽に感謝し、また、耕作地自体にも、恵み得ている事に感謝し、小さな祠や石を通じて対して感謝していた事が発端では無いかと思います。
生活していて、自分達の生活が成り立っている事について、周りの環境のあらゆるものに対して感謝していた事が、伺えます。
多神教の源的な考えだと思いますが、要するに自分以外の全ての存在について、感謝する気持ちの現れで、個人的には納得できる事です。
一方、1神教的な、考えは、大元の、創造主は、1つで有ると言う考えだと思いますが、これも否定しがたいものです。
ただ、世界的には多宗教が存在し、共通認識できなく成っている事自体が、何らかの作用の影響を受けているものと思っています。
お盆に対しての考え方や、風習について、それらは、何時から発生しどの様に普及してきたのか、それに対して特定の利害が発生しているのでは無いか?
本当に、先祖に対する考え方は、どの様に理解するのが、正解なのかと考えると、幾つもの不都合が有るように思います。
一番大きな事は、死者に対する扱いと、その後の、考え方に正解が見出せていないからでは無いでしょうか?
考える以前に先祖からの習わしと片づけるのも一つの考え方ですが、将来、それを引き継ぐ方々は、延々と
悩み続ける事に成るのでは無いでしょうか?
ただ、周りの人が行っている事を、適当にまねてやり過ごしている事が多いのでは無いでしょうか?
難題は、子供に引き継がれます。
そもそも。お盆の事を考える前に、人の死に、直面した時に、どの様に対応するのが適切なのかを考える必要が有ると思います。
日本では、紀元前255年頃の徐福の渡日から始まっていると思っていますが、中世の頃からの、外国からの侵入者に伴って、仏教を中心とした考えが大々的に伝わってきています。
すぐさま、それらは、権力者に寄り添い、特権を得てきました。そもそも、他国で行ってきた事をそのまま持ち込まれてきています。
日本は、元々、多神教的、自然崇拝的な、状況で有って、他の宗教を否定する事も無く、また偏りすぎる事もなく、歩んで来たのでは無いかと思います。その後の他宗教についても同じです。
そのような状況で、支配者層は、古墳や、墓の設置を行っていましたが、一般人の墓地などは、近年の物しか見当たらないのでは無いでしょうか?
近代に入るまでは、特定の山の谷間や、特定の山中に、土葬、または、風葬が一般人の死者の扱いが多かったのでは無いでしょうか?
その後、人口密集地を中心に、伝染病の拡散禁止等の口実で火葬をする事に成ってきているのでは、無いでしょうか?
土葬、風葬の場合は、自然に返す意味合いから、理屈に合った方法だと思いますが、やがて、人口が増えて、埋葬地が溢れかえっても、弊害が出てくる事も予測できる事から、火葬は、その様な意味では有効かもしれません。
その後の遺骨の扱いは、宗教者の思惑が入っていると見られますので、賛否が判れる部分では無いでしょうか?
最近の、都市部では、ビル内の、遺骨保管する施設も存在していますが、それすらも、ビジネスの対象で有って、本来は、どうするべきかについて考えさせない、ビジネスとして継続したい要望が先に存在しているように思います。
個人的な、考えとしては、土葬、風葬、水葬、鳥葬等で、自然環境に戻すのが、一番適切で、長期に渡って実施可能でしょう。しかし、生活圏に影響しないで長期的に適切に対応するとすれば、火葬して、その後の遺骨は、自然葬に習って、山中に埋葬するか、海洋投棄では無いかと思います。
また、もっと強力な火葬で、遺骨が残らない様に火葬する事も可能では無いかと思います。
将来的には、量子レベルまで分解し、量子にしてしまえば、形として見えるものとしては全く存在し無くなります。生成物は、量子ですので、大気中や、その他物質を構成しているものの素粒子に成ってしまいます・
ここまでの、考えに、落ち着くまでは、魂の存在や、肉体の存在、異次元の存在などについての理解が必要に成ってくるでしょうが、多くの人が考えているよりも早くに、その時期が到達するのでは無いかと思っています。
現在の、人の死後の扱いについては、宗教施設の、実質は、営利目的では無いかと思っています。
法要はどれだけ、価値が在るのか、それを行わない場合との違いは存在するのか?
全ての人が同じ事をしている訳では無いので、その違いはどうなのか?
埋葬して、その後延々と管理を理由に、その対価として管理費を要求したり、寄付を求めたり、或いは、強要するような雰囲気を創り出したりしているのでは無いでしょうか?
宗教施設は、何で成り立っているのか?
話は、少し変わりますが、バチカンの存在についての問題が、益々大きく成ってきています。
日本でも比較的大きな宗教施設管理者の中でのお金にまつわる不正も時々暴露されています。
世界中、昔から、権力者と宗教は、強い結び付きが有ります。支配のツールとして、民衆の洗脳機関として作用している部分が多いのでは無いでしょうか?
日本でも、有りますが、政府と結託して結局は、非課税扱いで、不正な資金の隠し場所に成っているのでは無いでしょうか?
政教分離と言いつつ何処の世界も、支配層との繋がり、または反社会勢力との繋がりも多く存在しているのでは無いでしょうか?
祭りや各地のイベント等、通常スルーしている部分で、寄付活動や、場所の使用料の存在や、色々な場面で
の裏社会との繋がり、政府機関や地域の支配層との癒着が、見え隠れしています。
物事の多くが、その時の雰囲気や、ブームに依って、コントロールされっぱなしで有る事に気付くと、何が重要かについて考えるキッカケに成ります。
必要な文化、作られた文化について考えても面白いかも知れません。
本当の価値を理解するためには、多くの無価値を理解する必要が有るかも知れません。それに気付いた時に始めてその存在価値に気が付きます。
結果、未来は、どうあるべきか、自分は、どうするべきかが、見えてきそうな気がします。
2025年8月20日